青木ヶ原樹海――日本では「自殺の名所」として恐れられている場所だ。
しかし本来、この森は素晴らしい自然の宝庫だった。
樹齢数百年の木々、苔むした岩、澄んだ小川。
季節ごとに色を変え、訪れる者に深い静寂と癒しを与える場所だった。
ある男がいた。名前は高木。
彼は樹海の不名誉なイメージを変えたくて、少しでも自殺者を減らすために日々森を歩き道しるべを整え訪れる人に声をかけていた。
「ここは死ぬ場所じゃない。生きるための森なんだ」と。
高木はSNSや地元紙で樹海の美しさを紹介し、自然保護活動も行った。
彼の努力で少しずつ訪れる人々の意識は変わり始めた。
森の散策者が増え、心を落ち着けるために立ち寄る人も現れた。
彼にとって樹海は生きるための場所だった。
自然の美しさを伝え、訪れる人々の心を癒し、何より自殺を思いとどまらせること――それが彼の使命だったのだ。
最初の頃は活動は順調だった。
声をかけて自殺を思いとどまらせたり、SOSを出す人を安全な場所まで誘導したり。
人々の感謝の言葉に彼の胸は満たされていた。
しかし、日々森で自殺志願者と向き合ううち少しずつ彼の心は蝕まれていった。
切実な願い、絶望の表情、諦めきった声
――それらが高木の心に染み込む。
夜、森を歩きながら聞こえる微かな叫びや、足音の残響が、現実と幻の境界を曖昧にさせる。
仲間が「大丈夫か?」と声をかけても笑うしかなかった。
「大丈夫だ…ただ疲れただけだ」
だが心の中では次第に奇妙な考えが芽生えていた。
「もし自分もここで…」
最初は無意識の思いだったが、樹海の深い闇の中で彼の頭の中で次第に強くなっていく。
ある日、高木は森の奥深くこれまで誰も通らなかった場所へ入った。
そこには倒れた小屋の跡、古い道しるべ、静まり返った苔むした岩地。
静寂の中、彼は自分の使命と絶望の狭間で揺れ動く。
夜が訪れ、霧が立ち込める。
森の奥からかすかに過去に救った人々の声が聞こえる
――悲痛な叫び、諦めの嘆き、そして高木を呼ぶ声。
「来て…」
誰もいないはずの森に彼の足は自然と進む。
振り返っても仲間の姿はない。
全ての光が遠ざかり、森は無限の闇に包まれた。
翌朝、捜索隊は森の奥で高木の荷物だけを見つけた。
人影も足跡も残されていない。
森の奥深くに誰かが立っていたのか。
彼は自ら森の闇に溶け込んでしまったのか――誰にも分からなかった。
樹海は今日も静かに呼吸を続ける。



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