仕事で山間の町に出向いたときのことだった。
終電を逃し、紹介されたのは駅から少し離れた古びた旅館だった。
看板の灯りは薄暗く、入口の暖簾も色あせていた。
「いらっしゃいませ」
迎えた女将は妙に小さな声で笑顔もどこか硬い。
客は私一人だけだという。
廊下の照明は電球色の裸電球で、足音を立てると古い木がきしんだ。
部屋に入ると黄ばんだ襖とシミの浮いた天井。
どこか湿気を含んだ空気が漂っている。
だが疲れていた私は気にせず布団に潜った。
――夜中、喉の渇きで目が覚めた。
廊下に出ると、すぐに異変に気づいた。
かすかな足音が遠くから近づいてくる。
下駄ではない。畳を擦るような、浴衣の裾と足が擦れる音。
薄暗い廊下の先に数人の人影が見えた。
みんな浴衣姿だった。
無言でゆらゆらと同じ方向に歩いている。
顔は影になっていて見えない。
その光景に背筋が冷えた。
私は慌てて水を取り部屋に戻ろうとした。
そのとき――人影の一人がこちらを振り返った。
目が合った…と思った。だがそこには「顔」がなかった。
黒い影のようにぼやけた空白があるだけ。
私は布団に潜り込み耳を塞いだ。
だが足音は夜明けまで続いた。
廊下を行き来し部屋の前で止まり、また動く。
――まるで部屋の中に入ろうとしているかのように。
翌朝、女将に尋ねた。
「昨夜、ほかのお客さんがいたようですが?」
女将は小さく首を振った。
「いえ、昨夜はお一人様だけです」
笑顔は変わらないが、その目だけが笑っていなかった。
私は追及する気になれず黙って支払いを済ませた。
そして出発しようと玄関を出るとふと気づいた。
廊下の窓から外を覗くと庭の隅に石碑が並んでいた。
苔むした石に刻まれていたのは見知らぬ名前ばかり。
日付はすべて「昭和四十年九月」。
その数は――昨夜、廊下を歩いていた人影と同じだった。



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