山を歩くのが好きだった。
特に人が少ない静かな道がたまらく好きだった。
その日もシーズン外れの山にひとりでハイキングに来ていた。
登山口には車が一台も停まっていなかった。
風が乾いていて、遠くの木々がざわめく音だけが響いている。
最初は快適だった。
空気は澄んでいて鳥の声が遠くで鳴いている。
木漏れ日が足元に落ちてまるで時間が止まったみたいに感じた。
……でも、途中から妙なことに気づいた。
後ろから誰かがついてきている。
ザッ……ザッ……と私のすぐ後ろで落ち葉を踏む音。
でも振り返ってもそこには誰もいなかった。
少し離れた木々の奥に風が通り抜けるだけ。
気のせいだと思ってまた歩き出した。
だけどやっぱり――ついてくる。
ペースを少し上げると後ろの足音も同じように早くなる。
こちらが止まるとその足音も止まる。
背中に汗がじっとり張りついて、心臓の音まで聞こえそうだった。
もう振り返れなかった。
早足で進む。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――
すると前からも足音が聞こえた。
コッ、コッ、コッ……と乾いた音。
誰かが道の先からこちらへ歩いてくる。
この山道は狭い。
人がすれ違うならどちらかが立ち止まらなきゃいけない。
でも……何も話す声がしない。
息をひそめて立ち止まった。
すると後ろの足音も同時に止まった。
風がピタリと止んで森全体が黙り込む。
前からの足音だけが近づいてくる。
ゆっくりと確実に私のほうへ。
曲がりくねった道の向こうで黒い影が動いた。
人……?
いや、形が歪んでいる。
霧のように輪郭が揺れて顔が見えない。
後ろを振り返る。
そこにも同じ影が立っていた。
身体が凍り付いたように動かなかった。
そのとき、前後の影が同時にこちらに近づき始めた。
足音が重なる。
ザッ……コッ……ザッ……コッ……
テンポが合っていく。
どんどん速くなる。
「やめて……!」
声を出した瞬間、影が一斉にふっと消えた。
私は泣きそうになりながら一気に道を駆け下りた。
必死に走っているうちに視界の端に登山口の標識が見えた。
助かった――そう思った瞬間、前に人影が立っていた。
背中を丸めた年配の男性。
登山者かと思った。
でも顔がなかった。
次の瞬間、後ろからも足音がした。
まったく同じテンポで左右から迫ってくる。
逃げても、音はついてくる。
……気がついたら私は山のふもとの駐車場にいた。
どれだけ走ったのか覚えていない。
車に乗り込みドアを閉めた瞬間安心して泣き出した。
しかしエンジンをかけようとしてハッと気づく。
助手席のマットの上に濡れた足跡が二つくっきりと残っていた。



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