「先生、今日もよろしくお願いします」
朝の回診。
整形外科の病棟で看護師の高梨は担当医の桜井先生と一緒に病室を回っていた。
50代半ばの桜井はベテランで患者からの信頼も厚い。
けれど最近どこか様子が変だった。
笑わない。よく冗談を言って周りを笑わせていただが最近冗談を全く言わなくなったのだ。
それに患者の容態を記録するノートをなぜか自分で隠すように持ち歩いている。
「桜井先生、電子カルテに記録されていない検査があるって事務から連絡が――」
「私のやり方に口出しするな」
その瞬間の目が異様に鋭かった。
高梨は何も言えず小さく頭を下げた。
昼過ぎ。
ナースステーションに患者のひとり――307号室の石田さんが青ざめた顔で来た。
「看護師さん……あの先生がさっき変なことを……」
聞けば回診のとき桜井がいきなり
「君の骨、もう一度折り直した方が綺麗に治る」と言い出したという。
もちろん冗談ではなかった。
真剣な表情でギプスを外す準備を始めようとしたらしい。
慌てて止めに入った看護師がいなければ本当にやっていたかもしれないとのことだった。
その日の夕方、
高梨が病棟の資料室に行くとドアの隙間から光が漏れていた。
誰かが中にいる。
覗くと桜井先生が患者のカルテを机に並べて何かを書き込んでいた。
静かに近づくと
カルテの表紙に赤ペンでこう記されていた。
「この患者はまだ“実験”に耐えられる」
ページをめくると詳細なメモが続く。
「痛覚反応良好」「血液量観察継続」「睡眠不足時の反応興味深い」
――まるで人体実験の記録のようだった。
高梨が息をのんだ瞬間、
桜井が顔を上げた。
「見たのか」
声が低く、笑っているのか怒っているのか分からない。
「先生……これは一体……?」
「医学はね、観察から始まるんだよ。
どれだけの苦痛に耐えられるか――それも立派なデータだ」
桜井は机の引き出しを開け、
その中から注射器を取り出した。
「君も……協力してくれるね?」
十数分後、廊下に悲鳴が響いた。
他の看護師たちが駆けつけると、
高梨は床に座り込んで震えていた。
桜井先生は――いなかった。
代わりに資料室の机の上に置かれたカルテの一番上。
高梨の名前が書かれていた。
「観察開始」
翌朝。
桜井は何事もなかったように回診に現れた。
微笑みながらいつものように。
ただ、その白衣の袖口に乾いた赤い染みがこびりついていることに誰も――触れなかった。



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