うちで飼っているモカという犬がいる。
ミニチュアダックスで8歳になる。
この子は家族のように大切な存在だ。
散歩は朝と夕方に行くのが日課で平日は私、土日は夫が担当している。
ある夕方、モカと川沿いの道を歩いていたときのことだ。
通りすがりのベンチに誰かが座っているのが見えた。
モカは珍しくその人の前で立ち止まり、じっと見つめている。
その人は70代くらいの女性。
黒っぽい服に帽子、顔はほとんど見えなかった。
そして、突然そのおばあさんは言った。
「モカちゃん、お散歩えらいねぇ」
――え?と思った。
モカの首輪にもリードにも名前は書かれていない。
この辺で「モカ」と呼ぶ人を見かけたこともない。
散歩コースは日によって変えているし、あのおばあさんのことも初めて見た。
私は苦笑しながら「ありがとうございます」と言いその場を離れた。
でも気になって何度も振り返ると、おばあさんはずっとモカを見ていた。
翌日、同じ時間に同じ道を散歩してみた。
あのおばあさんはいなかったが、ベンチの上に犬用のクッキーが一袋置かれていた。
中身は未開封で袋には手書きでこう書かれていた。
「モカちゃんへ。またあそびにきてね」
恐ろしくなって私はそのまま持ち帰らずに散歩を終えた。
夜、寝ているとモカが玄関の方をじっと見て唸っていた。
尻尾は下がり、歯をむき出しにしている。
何もいないのに誰かがいるかのように吠え続けた。
そして午前2時すぎ。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。
モニターには誰も映っていなかったが、録画映像を確認すると――
そこにはあのおばあさんが立っていた。
しかし、何かがおかしい。
口は動いているのに声がない。
首の角度も不自然で、手には再びクッキーの袋を持っていた。
カメラに向かって微笑むと、口だけで
「モカちゃん、おいで」
と言っているようだった。
その瞬間、モカは玄関に向かって走り出した。
今でも川沿いのベンチに誰か座っている気配を感じる。
だからもう近づかないようにしている。
たかがペットの名前と思うかもしれない。
でも、名前というのは“呼ばれるだけで連れていかれる力”を持っていると私は思っている。



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